2009年07月09日
「自由」と「平等」が諦められない。それが「通り魔」だ。
また通り魔だ。
■大阪市此花区のパチンコ店で火事 不審な男が店内で液体まき逃走
通り魔的殺人はいまに始まったことではない。江戸時代の辻斬なんてのも通り魔殺人といえなくもない。ただ最近のそれは、憂さ晴らしや快楽殺人といった要素はなく、犯行を隠そうという意思も見えない。ひたすら社会を逆恨みし、無差別に人を殺傷することで社会へ報復し、なおかつ自らの犯罪行為に極刑を望んでいる。他人を犠牲にして自殺を企んでいるかのようにも見える。事件報道を聞く度にひどく薄ら寒い気持ちになってしまう。
■通り魔殺傷事件、過去最高
まじめで知能が高く、性格は暗く孤独。社会生活になじめず失業中かそれに近い。概ね、通り魔にはこのような共通点が見える。秋葉原通り魔事件がその象徴だろう。犯人から我々へ、強くそして底無しに暗いメッセージが伝えられた。
この手の事件には模倣犯も生まれやすく、高山でも人命こそ失われてはいないが、通り魔が出現している。最早、身近な問題だ。
■高山の通り魔事件、懲役6年 岐阜地裁判決
現代社会の病巣が都会に限らず日本のあらゆる地域に広まっている。犯人を責めるのは容易いが、なぜ通り魔が相次ぐのだろう? 希望を失い、社会に不満を抱えて自暴自棄になる人間が増え続けているのはなぜか?
景気との相関関係があることは間違いない。しかし、人心を狂わせるもっと根本的な問題がある。それは、知らず知らずのうちに我々の思考にすり込まれてしまっている。今では当たり前になってしまった、普遍的な価値観。
すなわち、自由と平等。それは、近代思想が生み出したもっとも尊い価値観であり精神的な支柱である。戦後、アメリカによって付与された民主主義は日本に平和と繁栄をもたらした。自由と平等の精神は、この民主主義の根幹となっている。
この自由と平等が社会通念として充分に浸透した現代日本にあって、人心を悩ませ、時に狂わせてしまうような元凶となっている……としたらどうだろう。
これを論証することは容易いことではない。傍証とすらならないかもしれないが少し論じてみよう。
江戸時代は支配階級の武士と被支配階級の町人・百姓という身分制度が敷かれた(士農工商という呼称は差別的で正確ではないという理由で現在あまり使われなくなった)。身分移動はある程度あったとされるものの、ほとんどは出自によって人生が決められてしまった。現代から見ればなんとも窮屈な時代だと思われるが、被支配階級に生まれたら不幸だったのだろうか? 百姓に生まれたからと言って自暴自棄になっただろうか? 答えはノーだ。
ほとんどの人は低い出自であっても、自らの人生を受け入れることができた。なぜならそれが当然だからだ。それ以外の可能性を期待しないし、そもそも自由や平等などという抽象的な観念はまったく存在しなかった。だから、彼らは自らの身分を弁えることができたし、未来を諦めることができた。
現代社会では、もちろん身分制度はない。生まれつき自由であり、法の下で平等である。いかなる者にもなれる可能性がある(ただし、適切な能力と努力と運を手に入れられれば、という条件付きだが…)。
あらゆる可能性が広がっているという幻想をもって人は生きる。だからこそ激烈な競争が生まれ、必然的に勝者と敗者が生まれる。そして不幸なことに敗者となっても白旗を揚げることが許されない。勝てないとわかっても常に競争をし続けなければならない、決して諦めてはならない社会なのである。
自由と平等は、人に無限の競争を強いるのである。だから、人心はすり減り、ときに自暴自棄となった逃げられないタイプの輩が、通り魔に変身するのだ。
相当、無謀なロジックになってしまっていることは承知だが、直感的にそういえる。かといって、昔のような階級社会に戻ることを望んでいるわけで決してない。近代思想が限界に達したといっているのである。
ポストモダンとはそういうことを志向すべきだ。人を無限競争のループから抜け出させ、ギブアップしても受容される社会をもたらすことを。
■大阪市此花区のパチンコ店で火事 不審な男が店内で液体まき逃走
通り魔的殺人はいまに始まったことではない。江戸時代の辻斬なんてのも通り魔殺人といえなくもない。ただ最近のそれは、憂さ晴らしや快楽殺人といった要素はなく、犯行を隠そうという意思も見えない。ひたすら社会を逆恨みし、無差別に人を殺傷することで社会へ報復し、なおかつ自らの犯罪行為に極刑を望んでいる。他人を犠牲にして自殺を企んでいるかのようにも見える。事件報道を聞く度にひどく薄ら寒い気持ちになってしまう。
■通り魔殺傷事件、過去最高
まじめで知能が高く、性格は暗く孤独。社会生活になじめず失業中かそれに近い。概ね、通り魔にはこのような共通点が見える。秋葉原通り魔事件がその象徴だろう。犯人から我々へ、強くそして底無しに暗いメッセージが伝えられた。
この手の事件には模倣犯も生まれやすく、高山でも人命こそ失われてはいないが、通り魔が出現している。最早、身近な問題だ。
■高山の通り魔事件、懲役6年 岐阜地裁判決
現代社会の病巣が都会に限らず日本のあらゆる地域に広まっている。犯人を責めるのは容易いが、なぜ通り魔が相次ぐのだろう? 希望を失い、社会に不満を抱えて自暴自棄になる人間が増え続けているのはなぜか?
景気との相関関係があることは間違いない。しかし、人心を狂わせるもっと根本的な問題がある。それは、知らず知らずのうちに我々の思考にすり込まれてしまっている。今では当たり前になってしまった、普遍的な価値観。
すなわち、自由と平等。それは、近代思想が生み出したもっとも尊い価値観であり精神的な支柱である。戦後、アメリカによって付与された民主主義は日本に平和と繁栄をもたらした。自由と平等の精神は、この民主主義の根幹となっている。
この自由と平等が社会通念として充分に浸透した現代日本にあって、人心を悩ませ、時に狂わせてしまうような元凶となっている……としたらどうだろう。
これを論証することは容易いことではない。傍証とすらならないかもしれないが少し論じてみよう。
江戸時代は支配階級の武士と被支配階級の町人・百姓という身分制度が敷かれた(士農工商という呼称は差別的で正確ではないという理由で現在あまり使われなくなった)。身分移動はある程度あったとされるものの、ほとんどは出自によって人生が決められてしまった。現代から見ればなんとも窮屈な時代だと思われるが、被支配階級に生まれたら不幸だったのだろうか? 百姓に生まれたからと言って自暴自棄になっただろうか? 答えはノーだ。
ほとんどの人は低い出自であっても、自らの人生を受け入れることができた。なぜならそれが当然だからだ。それ以外の可能性を期待しないし、そもそも自由や平等などという抽象的な観念はまったく存在しなかった。だから、彼らは自らの身分を弁えることができたし、未来を諦めることができた。
現代社会では、もちろん身分制度はない。生まれつき自由であり、法の下で平等である。いかなる者にもなれる可能性がある(ただし、適切な能力と努力と運を手に入れられれば、という条件付きだが…)。
あらゆる可能性が広がっているという幻想をもって人は生きる。だからこそ激烈な競争が生まれ、必然的に勝者と敗者が生まれる。そして不幸なことに敗者となっても白旗を揚げることが許されない。勝てないとわかっても常に競争をし続けなければならない、決して諦めてはならない社会なのである。
自由と平等は、人に無限の競争を強いるのである。だから、人心はすり減り、ときに自暴自棄となった逃げられないタイプの輩が、通り魔に変身するのだ。
相当、無謀なロジックになってしまっていることは承知だが、直感的にそういえる。かといって、昔のような階級社会に戻ることを望んでいるわけで決してない。近代思想が限界に達したといっているのである。
ポストモダンとはそういうことを志向すべきだ。人を無限競争のループから抜け出させ、ギブアップしても受容される社会をもたらすことを。
Posted by たまゆらゆら at 01:43│Comments(0)
│時事ネタ